K.MUKAI 作家 yamayamaya
向井さんのエッセーをご紹介。盲導犬エヴァンとの生活が綴られています。
◆ボーッとしているわけではないです
相棒の盲導犬・エヴァンは、ハーネスを外して仕事から解放されると、筆者のそばでくつろいでいる。
朝、六時過ぎにトイレと朝食を済ませ、施術室に移動する。ここで夜六時ごろまで過ごす。途中、トイレタイムが二回あり、夕方、近所の散歩に出る。
たいてい、床に顎を付けるか、背中を丸めるかして、休んでいる。目をつむってはいるが、眠っているわけではない。そこは仮にも犬族だ。外にクルマが停まれば、スッと立ち上がる。
患者さんと、郵便屋さん・宅配便などで反応が異なる。さらに、目礼程度で済ませている患者さんもいれば、歓迎の意を全身で表現して迎える患者さんもいる。
◆嗅覚と聴覚が犬の命です
大体において、犬は寂しがり屋だ。
筆者がトイレに行くと、部屋で動き回る気配がする。不安がっているのだろう。戻ると、筆者の顔をまじまじと見つめる。
ほぼ引きこもり状態なので、何よりも外出を楽しみにしているようだ。
「行こうか」
声をかけると、後ろ足立ちして喜ぶ。
先日、大衆演劇を観に行った。わが市にも芝居小屋ができ、こけら落としの公演だった。四時間に及ぶ長丁場ながら、足元でじっと控えていた。ただ、歌謡ショーになり、にぎやかな音楽と割れるような拍手にはさすがに身をすり寄せてきた。犬の真骨頂は研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚であるだけに、喧騒は苦手みたいだ。
◆食欲には勝てません
外出もさることながら、食事になると、いつもの落ち着きをなくす。
ドッグフード一三〇グラムと水を朝夕二回。一気に平らげてしまう。おいしそうに食べる音は、我が家の仲間入りした四年前となんら変わらない。
快食快便は、命あるものの健康の基本だ。毎日、犬の世話をしていると、実感する。
トイレから戻った時など、首輪が外れて家の中に姿をくらますことがある。食べ物を漁っているのだろう。
人間なら
「なんとも浅ましいヤツだ」
となるところだが、日ごろの献身的ガイドに免じて、大目に見ることにしている。
◆ドッグイヤー・人間時間
ところで、エヴァンはユーザーの筆者をどう見ているのだろうか。
患者さんがいない時、小説の朗読などを聴いていると、しきりにちょっかいを出してくる。
「ヒマなら遊んでよ」
と言わんばかりだ。
犬は人間の七年を一年で生きる。寸暇も惜しむ動物なのだ。
散歩から帰ると、家の中は真っ暗だった。エヴァンに水を汲んでくるため、洗面所に向かった。慣れた室内のはずなのに、明かりのスイッチの場所が分からない。
右往左往していると、エヴァンが寄ってきた。
「大丈夫?」
と言っているようだった。
(エヴァンは、私の目が悪いことが分かっているのかも)
ふと、そんなことを思った。
Uターン・開業祝いに幼馴染みからプレゼントされた壁掛け時計は、とっくに見えなくなった。
「(視覚障害が)進んでいるみたいだから」
と、専門学校の後輩が卓上音声時計を贈ってくれた。これには助かっている。
(そろそろ夕食時間かな)
と思うと、音声時計を押す。
エヴァンも心得たもので、音声を合図にスタンバイする。そのはしゃぎようといったらない。
◆もういい加減にして
書き物(入力)や調べ物(検索)に熱中して、エヴァンの夕食時間を忘れていることがある。
エヴァンは椅子に顎を乗せて、上目づかいに筆者をうかがっている。
犬にだって
「もう、我慢も限界だ」
という時がある。
しびれを切らせたエヴァンは立ち上がって、筆者に覆いかぶさってくる。
これ以上、待たせると動物虐待と言われても仕方がない。
パソコンの電源を落とす。エヴァンは有無を言わさず、ドッグフードのもとへ、グイグイと筆者を引っ張っていく。
やがて、ピチャピチャと一心不乱に食べる音。今日も無事一日が終わったことに感謝する。